猫と犬とピアノと、たまに本。

猫娘達と犬娘、そして音楽と本に囲まれて生活しています。

「いじめ」の話で思うこと。

今日の朝刊で

「いじめ1割増68万件」

という見出しが一面にありました。

胸が痛みます。

 

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[三女ちょこ 新聞を広げると寄ってきます。が、新聞を読む様子はありませんw]

 

子どもの頃は、ほぼ家と学校しか世界が無く、そこでのいじめは、容赦のない同世代からの有形無形の攻撃で、ただでさえ傷つくし辛いのに、周りが助けてくれない、分かってくれない、先生も分かってくれない=自分が悪いのかな、という感覚になり、ひいては深刻な自己否定につながっていくのかな、と。

 

ホントは、世界は多様性に溢れているのに。

そう言えば、何かを成し遂げるヒトって、その中でも周りのヒトとはどこか違うヒト…つまり、画一性を求められる集団組織の中では少し浮いてしまうようなヒトなのかな、と感じています。発想や行動が皆と同じで、皆より抜きん出るヒトって、滅多に居ないと思いません?

 

学校って、一度に多くの児童生徒に一定水準の知識技術を身につけさせる、という必要な機能を持っているのかもしれませんが、ある意味子どもの個性を殺してしまう(集団に合わせる、浮かないようにするという類のスキルを身につけさせるという意味で)という機能も持ち合わせているのかな、とも思うことがあります。

 

さておき。

通勤時間や隙間時間に、ネットのマンガや記事を読むことがあります。

・ 姑が、息子家族の嫁にだけお茶や食事を出さない

・ 姑が、娘の子どもには高級なおもちゃをプレゼントするが、息子の(姑的には嫁の)子どもには何もプレゼントしない

・ 夫が、自分の母からの理不尽な要求を妻に受忍させる

・ 妻が姑からの意地悪を訴えても信じない、逆に妻を攻撃する(ロクに真偽を確かめずに)

・ 夫の妻へのモラハラ

・ ママ友グループで、居ないヒトの悪口陰口、グループからの仲間外し

・ 職場でのモラハラ、セクハラ、パワハラ

・ 古参従業員の横暴

・「イジり」という名の嫌がらせ

等など…

これらの話は、実話を脚色して描いているモノが多いそうです。(「実話を基に」と記載のあるものが多いです。)と、いうことは、これらは、ある程度実際の話として存在している出来事なのでしょう。

 

最終的には、ちゃんとスカッとするオチがついているから、読み物としては面白く読まれているのでしょうが…(いや、「離婚しました」とか「縁を切りました」というのは『ちゃんとしたオチ』『スカッとしたオチ』と言って良いのでしょうか。疑問です。)

 

私の個人的見解としては、「これって、オトナのいじめじゃね?」

 

話を戻しますが。

大人が大人を虐めていて、その大人が「子どものいじめをなくしましょう」って言っている。

何か、変じゃないですか?

子どもはダメだけど大人は良い?

そんなことはないでしょう。

大人だって、理不尽な扱いをされたら嫌だし傷つきます。

状況によったら、嫌でも声を上げられないし、そもそも自分の今居る世界に絡め取られたら、自分の認知が歪みます。たとえ後になって冷静に考えてみたら、おかしな考えだったとしても。そして、いじめは自分では抜け出すのが非常に困難だから「いじめ」なのだと思うのです。

 

分別のある「筈」の大人が、自分たちの「いじめ」を棚に上げて、分別の未熟な子どもたちに『「いじめ」をやめましょう』って、ちょっと無理がありませんか?

 

詰まるところ。

「いじめ」は、「子どもの」「学校社会での」いじめだから、学校の責任とか言われてしまいますが、学校特有の問題ではなくて、本当は社会全体に蔓延っている問題なのかと。

「子ども」の世界と「大人」の世界を切り分けるのではなく、ヒトとヒトの関わりの問題と捉えた方が、改善に繋がりやすくなるのではないかなぁ、と個人的には思っています。

 

 

愚説失礼しました。

 

余談ですが。

そもそも、二分論で論じること自体が無理のある事だなぁとも思っています…